昔、荒川に欠かせない風物詩に鵜づかいがありました。今でもそうですが、鵜があまりにも上手に魚をつかまえるため、魚の種の保存を心配する世論によって近年絶えてしまいましたが、50年前には岐阜の長良川にみられるような鵜漁がこの一帯にありました。長良川は観光のため、鵜匠は文楽の黒子のような衣装ですが、実際の鵜匠・鵜使いたちは生活のための漁でしたので、普段着に腰までくる防水ズボンまたは長靴というスタイルでした。熊谷・新川村の長島政太郎さん親子は名人ともいわれる鵜使いでした。新川村に2軒家があり、ひとつは川岸に一番近いところ、もうひとつは上分の自宅。そこには冬場をのぞいて数十羽の鵜が飼われていました。鵜使いは毎年、早春の頃、羽田や茨城の崖っぷちで海鵜や川鵜を捕獲する業者から鵜を買ってきて、訓練し漁に連れて行けるようにしました。特にリーダーになる鵜は前年から残していた鵜でした。他の鵜は先輩の鵜に習い、ました。鵜はおなかがすいていないと魚をとらないので、特に食事の時間はきちんと決められていました。

 朝のうち自転車に鵜を数羽積んで土手ぞいに桶川・川田谷までやってきて舟に乗り換え川をのぼっていくのです。鴻巣では主に御成橋付近が漁場でした。新川の親子3人の鵜づかい達はいっせいに鵜を放つ。おなかをすかせた鵜は水にもぐって鮒や雑魚つかまえ喉まで満杯になると、舟にもどり籠の中に魚を吐き出す。漁が終わると、村に戻る途中で待ち構えている魚の仲買人が高く買い取ってくれたという。鵜づかいたちはシーズンが終わると大半の鵜を長良川に売りました。訓練された鵜は高く売れました。たくさんの鵜を翌年まで飼うことができなかったのは、食欲旺盛な鵜たちの餌代の費用が大きな負担だったからとだといいます。

人間たちによる鵜漁はなくなりましたが、今、下流から早朝に鵜の大群がやってきて、熊谷一帯の川魚を捕獲する姿が見られます。


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